小説(7)安川が、松田をこっちへすわこいと手招きをしたこともあり 安川そして菊山というデザイナーの間に座った。「これから、たいへんだね」 菊川が挨拶もそこそこに切り出した。 「えっ?どういうことですか?」 そこへ安川が口をはさむ 「菊川はね、今週いっぱいでやめるんだよ」 当然、会社は入社する人がいれば、やめる人だっている。人が会社を辞めるというのは相当なエネルギーをつかう。それはそうだ。一日の多くの時間、それも家族よりも長い時間を過ごす場が、変わると言うのは、大変に精神を疲労させる。だから、やめる、というのは大きなきっかけがないとやめられない。また、日本の社会は転職に対して昔ほどではないにしても、寛容さはいまひとつときている。 ここに誤解をといておくと、アメリカでも職を点々とするのはあまりこのまれない。ジョブホッパーなどと揶揄される。そう、いい仕事もとめてぴょんぴょん移る、という意味。そして、大きな会社となれば、やはり生え抜きがトップにつくことが多い。 なぜ、やめるんだろうと松田が思った、そのとき、 「王女さまに刺されたんだよ」 安川は、松田の質問を見透かしたように、菊川にかわって答えをくれた。また王女様だ。松田は思った。菊川は見たかんじ文字どおりクリエイター然とした雰囲気をもっている男で、歳は29歳だった。当時としては珍しい ふち無しの眼鏡をかけていたが、その奥底の眼底は、人の本質をえぐり出すような厳しさをもっているようだった。そんな彼がなんだって、王女様にさされる? 「安川さん、古巣に戻るだけですよ。松田さんがびっくりするじゃないですか」 「古巣って?」 「バンミーだよ」 なぜかまた安川が答えた。安川はまだ乾杯前にもかかわらず、すでに中瓶を1本たのんで、グラスに注いではぐいぐいやっていて、すでに顔は赤ら顔になっていた。 「じゃあ、深田社長と同じ」 聞くところによると、アンテラは、バンミー含めて社長が集めてきた人材と、人材紹介会社で採用した人材のに分かれた。菊川はその前者らしい。当然、深田社長が菊川を引き抜いた。 「どうしてやめるんですか?」 「ま、いろいろ考えるところあって、ということかなあ。いい」 深田は、5メートルほど離れたカウンターで、汗を流しながら、焼き鳥を焼き続けている。その姿が50センチほどあいた障子の隙間からみることができた。気が付くと、10人ほどのカウンターは人で一杯になっていた。 松田も、安川にコップになみなみとつがれ、コップに口をつけたときだった。菊川が、ぼそっとつぶやいた。 「松田さん、江頭さんには気をつけてくださいよ」 「どういう意味なんですか?」 「だから、気をつけろってことですよ。でも、菊川のような人材、アンテラにはもったいないよ」 安川は、そういうと口をつけていたグラスをテーブルに置き、その上においていたハイライトから一本取り出し、火をつけた。昼から、思わせぶりな話のふり方をする。松田の好奇心はそそられる一方だった。 テーブルの対面には 安藤と赤城がなにやらぼそぼそと話をしている。今日の昼、安藤と昼を食べたが、感情を露出するタイプではなく、もくもくとお昼のハンバーグステーキライスのライスを、フォークの背にのせて、ゆっくりと口のなかに運ぶ姿をみて、安藤の記帳面さの一面をかいま見たような気がした。 酒宴は 全員参加とはいかなかった。菊川は、筆さばきがうまく、酒はあまりすすまない方であったが、鞄からスケッチブックを取り出し、各人の似顔絵を書いてくれた。それを見て、皆が強嘆の声を都度あげた。深田は和の中で、というよりは、いるだけで存在感をかんじさせた。机の上には、深田が焼いた焼き鳥はすでに尽き、すでに二皿目が 塩とタレといった具合にしわけてならべてあった。ビールも二回転め。安川は 日本酒をはじめていた。松田はあいかわらずビールを楽しんでいた。 はじまって1時間ほどして、トイレにたったとき、菊川と一緒になった。 「松田さん、江頭に嫌われたら、この会社ではやっていけませんよ。自分はそれなりにやりがい感じてたけど、なぜかある日突然、無視されるようになってね。社内の行事の案内とかもこなくなったんですよ。なんか、いやになっちゃって」 「なんかあったんですか?でも古巣にかえるんでしょ?」 「そうだけどさ、ま、話せば長いし、松田さんは、がんばってくださいよ」 あとから聞いた話だと、江頭に嫌われた社員は、ことごとく会社を去っていったらしい。それが、単純に江頭の気分の問題なのか、それとも、深田の意思がそこに働いているのかは分からない。しかし、小さな会社だと、そりのあわない、もしくは人間関係がうまく円滑に動かないと仕事はまわらなくなる。 大企業でも 人間関係は悩み多い問題だ。しかし、組織が大きいおかげで、何年か我慢すれば 異動だって可能である。願い出て異動となるケースもある。それによって、いくぶんか人間関係の毒気も薄められるが、少人数、小組織だとそうはいかない。会社を去るのも、勢い選択肢のひとつにはいってくる。 席に二人してもどると、さきほどとはちがって、冷たい空気が漂っているのに松田は気が付いた。それは菊川も同様のようであった。そして、深田のとなりに座っていた女性、江頭みさえの存在がその原因であったことも、すぐにわかった。 「松田さん、乾杯しましょう」 国際部長様の乾杯だ。丁重にと思いながらも顔はこわばってしかたがなかった。 |